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交響曲はこう聴く! ①ブラームス編

小澤征爾xサイトウ・キネン・オーケストラのブラームス交響曲1番」を聴いたところからオーケストラの世界を探索し始めたものの、なにしろ1曲にかける時間が長いので思うようには進まず。ここまでブラームスをひと通り聴いて、ベートーベンの3、5、6、7、9番、それからモーツァルトとハイドンを1〜2曲ずつといった所ですが、5月7日がブラームスの生誕日(1833年ドイツ連邦ハンブルク自由都市)ということで一旦ここまでの成果をまとめることにしました。

まず交響曲1番を色々な指揮者で、それから4番、2番、3番といった順番で聴いていきました。

オーケストラ作品を聴く上で悩ましいのは、やはり「指揮者x楽団」の組み合わせが無数にあることですね。指揮者によっても得意分野が違うだろうし、オーケストラもそれぞれに特徴があり、また指揮者が常任なのか客演なのか、ライブかスタジオ録音かでも雰囲気が変わると思います。これまで「ドイツものは〇〇指揮がいい」とか「△△楽団の金管はピカいち」といった論評を目にしても我関せずでしたが、交響曲をちゃんと聴こうと思うとさすがに無視できなくなってきました。たしかに、ピアノでもホロヴィッツ、ルビンシュタイン、グールド、ポリーニ・・・ぐらいは知っておいた方が良い、というのはありますね。

そこで「ボクの音楽武者修行」を購入した時、隣に「至高の十大指揮者」という本も並んでいたので一緒に購入しておきました。中川右介さんという文化系・サブカル系の著書をたくさん出している方の本ですが、これがとても面白かったので後に「カラヤンとフルトヴェングラー」も購入しました。どちらも時代背景が詳しく分かりやすく書かれていて、単純に指揮者のスタイルや経歴だけを扱ったものではないので物語のように読めました。

「至高の十大指揮者」でリストアップされている指揮者は以下のとおり。(カッコ内は生没年と国)

アルトゥーロ・トスカニーニ (1867年イタリア王国/1957年アメリカ)
ブルーノ・ワルター (1876年ドイツ帝国/1962年アメリカ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー (1886年ドイツ帝国/1954年西ドイツ)
シャルル・ミュンシュ (1891年ドイツ帝国/1868年アメリカ)
エフゲニー・ムラヴィンスキー (1903年ロシア帝国/1988年ソビエト連邦)
ヘルベルト・フォン・カラヤン (1908年オーストリア=ハンガリー帝国/1989年オーストリア)
レナード・バーンスタイン (1918年アメリカ/1990年アメリカ)
クラウディオ・アバド (1933年イタリア王国/2014年イタリア)
小澤征爾 (1935年満洲国/2024年日本)
サイモン・ラトル (1955年イギリス〜)

そして書名には表れていませんが、「カラヤンとフルトヴェングラー」に出てくる重要人物としてチェリビダッケ。

セルジュ・チェリビダッケ (1912年ルーマニア王国/1996年フランス)

ここまで聴いてきた感想としては、ブラームスの2〜4番に関してはチェリビダッケの録音が好きです。ただ1番は少し遅く感じるので、ブルーノ・ワルターかシャルル・ミュンシュ。トスカニーニはまだほとんど聴けていません。カラヤン以降もまだそんなに聴いていないのですが、何となくカラヤンはモーツァルトかなと思っています(華やかなイメージだけで決めています)。バーンスタインはマーラーを聴く段になるまで取っておくことにして、アバド、ラトルはそれらがひと通り聴き終わったら改めて聴き比べようかなと。そうこうしている内に、ここで取り上げられていない指揮者が気になってきそうですが・・・。

小澤征爾の指揮については、後で機会があれば詳しく書きたいと思います。ネット上の論評を見る限りでは賛否両論ありそうだという事が分かりました。そしてなぜそのように言われるのかも自分なりに見当を付けていますが、ごくごく単純に言い切ってしまうと「人物としては極めてインターナショナル、コスモポリタンでありながら最後まで日本的な指揮者であった」ということです。ムラヴィンスキーも小澤さんと似たような理由で別枠、ただしこの人はオーケストラもほとんど自国のものしか振っていないので、別枠の中でも特別枠と言ってもいいかもしれません。

そしてフルトヴェングラー。泣く子も黙るフルヴェンですが、なぜかブラームスという感じはしなかったです。そこで、もう一つの感想。

ブラームスにあってベートーベンにないもの:優しさ
ベートーベンにあってブラームスにないもの:エンタメ性

全くもって主観的かつかなり大雑把な分け方ですが、一旦こういうことにしておきます。またここでは、ブラームス1番は巷で言われている通り「ベートーベン10番」と考えてしまって良いかもしれません。なぜこう考えたのか。

・フルトヴェングラーは全てにおいて音楽的に「正しく」かつインスピレーションに溢れ、人間性がどうだったとしても誰にも文句を言わせない程の圧倒的な音楽的天分が演奏に顕れてくる。そこがベートーベンに重なるのではないか(ベートーベンはフルトヴェングラーほどには傍若無人ではなかったようだけれども)。

・一方でブラームスの音楽においては、人生の重みや痛みを引き受けてくれるかのような優しさと、包み込んで励ましてくれるような力強さが大きな魅力のひとつであり、それはチェリビダッケのように音の響きをずっと聴かせてくれるような演奏でこそ染みてくる。

・そしてブラームス1番が別枠なのは、やはりベートーベンを意識するあまりの硬さというか「交響曲はこうあるべき」という作品になっていて、上記のブラームスらしさが影を潜めてしまっている(=チェリビダッケの良さが発揮できない)ように思える。

ブルーノ・ワルターはその点中庸というか、「安心安定のブルーノさん」という感じで、ミュンシュも正統派だと思いますがフランス気質も入っているのか、響きをちゃんと聴かせてくれる印象なので1~4番どれを聴いても良いかなと思いました。(注:ミュンシュの生誕地は現フランス領ストラスブールで、本人も後にフランスに帰化している。)

「カラヤンとフルトヴェングラー」の帯。ちなみにフルトヴェングラーはブルーノ・ワルターに
対しても謀略を用いて地位を手に入れています。おどろおどろしい・・・

「至高の〜」で取り上げられた指揮者のうちカラヤンまでは、時の国際情勢(戦争と革命)や政治闘争にがっつり巻き込まれています。バーンスタインや小澤征爾も彼らほどではないにしても所々で政治に使われたりあるいは状況を利用したりしていたと思われる。指揮者というのは登り詰めると国家と渡り合えるほどの権威になるらしく、その辺りも中川右介さんは上手く描いています。そういった政治との関わりはベートーベンにも言えることで、逆にブラームスにはそのような動きは見られない。そこが先に挙げたエンタメ性(常に聴衆の耳目を集めて扇動することを意識していた)と優しさ(音楽の世界だけを追求し、音楽のための音楽を作ることに没頭できた)の違いになって現れてくるのかなと思いました。

さて5月7日はブラームスの生誕日だと書きましたが、もう一つあります。ベートーベンの交響曲9番が初演された日が1824年5月7日、今年は初演から200年の年でもあるそうです。(もっと言うとチャイコフスキーも5月7日生まれだそうです。)

ということを聞いたのが数日前のとあるYouTube番組でした。あわてて「第九」を聴いた(フルトヴェングラー指揮)のですが、その後に行ったラ・フォル・ジュルネ TOKYOの書籍売場で「<第九>誕生」というタイトルが目に飛び込み、即購入。この本は「第九」の曲の解説ではなく、初演された1824年当時の社会情勢や芸術家の動向などを書き記したものになっています。まだ半分ぐらいしか読んでいませんが、こちらもまとまったらブログ記事にしようと思います。

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